コラム

日本の有名な心理学者たち part2

  • コラム
  • 2020/03/10

心理学者やメンタルへルスの専門家には、日本人にも多くの有名な先生方がいらっしゃいます。そんな日本を代表する先生方の一部を御紹介させていただきたいと思います。


小保内 虎夫 先生

岩手県生まれで、東京帝国大学に進学。

同大学を卒業後、東京高等学校・東京文理科大学・東京教育大学で教育と研究に携わっています。

特に心理的・生理的過程の相互作用についての研究で有名です。

小保内先生は、目の網膜の一部に生じた神経性の興奮が中枢に投影されると、この投影は当該部分だけでなく周囲にも拡散すると仮定し、このような生理的な反応の波及を感応と定義しました。

感応には興奮と抑制があり、その交互作用により、目・耳・鼻・舌・皮膚の五感の知覚に関する様々な現象を説明しようとしました。


桐原 葆見 先生

東京帝国大学および同大学院で心理学を学び、1921年に倉敷労働科学研究所(現在の労働科学研究所)の設立に参加し、その後は労働科学研究所の所長を務めています。

桐原先生は、日本における産業・組織心理学や労働科学研究の先駆的な研究者で、実践的かつ科学的な研究姿勢を貫きました。

また、桐原先生はテーラーの科学的管理法に対しては批判的立場をとり、労働者の生活を重視する労働科学を築き上げました。

桐原先生が反対の立場をとった科学的管理法とは、テーラーが提唱したもので、工学を組織経営に応用した理論です。

科学的管理法では、規定の作業量を規定の時間内に達成した労働者には高い賃金を支払い、達成できなかった労働者には低い賃金を支払うという制度の導入、生産性の維持・向上に必要な休憩時間の算出などを実施します。

産業場面で活動する人間と、人間が使用する道具、実施する課題の3つのバランスを科学的根拠に基づいた手法で調整するのが主な目的であり、これを取り入れたことで組織経営に変革がもたらされました。

科学的管理法は様々な分野・職域に広がっていきましたが、産業組織を1つの大きな機械として捉え、そこで働く労働者を機械の部品として捉えるという工学的な観点は次第に批判の対象となっていきました。

桐原先生が反対されたのも、このような観点からであると考えられます。

現在でも桐原先生と同様に、科学的管理法に批判的な立場の専門家は多いです。

ただし、産業場面にデータや数値を従事する科学的なアプローチを取り入れたという意味では、一定の評価を受けています。


久保 良英 先生

佐賀県に生まれ、1909年に東京帝国大学・哲学科を卒業し、1913年にアメリカに留学しました。

留学後はホールに師事し、当時、最新の心理学について学びました。

帰国後、東京帝国大学の講師に就任しました。

しかし、当時の日本における児童に関する心理学的研究の遅れを痛感したことで、児童教養研究所に参加し、1918年に『児童教養研究所紀要』を刊行しました。

また、児童心理学者のビューラーの研究や理論を日本に紹介し、児童中心主義の思想に影響を受けつつ、従来の分析的研究に立脚した折衷的立場からの児童心理学の観点を導入しました。

また、世界で最初の知能検査であるビネー - シモン式知能検査やアメリカの国民知能検査を踏襲した日本版の団体知能検査法を確立しました。


桑田 芳蔵 先生

鳥取県生まれで、1905年に東京帝国大学・文科大学を卒業後、ドイツのライプチヒ大学に留学しました。

ちなみに、ライプチヒ大学はヴントが世界初の心理学実験室を設立したことで有名です。

つまり、当時最先端の心理学を学ぶための留学ということになります。

他の同世代の先生方にも、ライプチヒ大学へ留学した方がいらっしゃいます。

桑田先生は帰国後に、東京帝国大学の講師、助教授を経て、1911年に文学博士号を取得します。

1940年には、同大学の文学部教授となり、その後は、大学評議会の評議員、文学部長を歴任されました。

1946年に東京帝国大学の松本亦太郎先生の死去後は、第2代日本心理学会会長、東洋文化研究所の所長、さらに1948年には新設の大阪大学・法文学部・教授や同学部長を務められました。